「助さん格さん』にならない

 S君は、教職不適応をおこしたが、かれがりっぱだったことは、
子どもをたたかなかったことである。しかし、若い教師のなかに、
子どもを平気でたたくものがふえている。指導が入らないいらだ
ちからだとは思うが、すぐにカッとして体罰にはしる。そうする
と、一時的に指導が入ったようになるから、このやりかたはまち
がいないと確信し、やがて、子どもはたたかないとよくならない
という危険思想にとりつかれる。こうして『助さん』『格さん』
になるのである。
 管理的体罰学校には、『水戸黄門』と『助さん』『格さん』が
いる。そのまわりに『風車の弥七』『うっかり八兵衛』、それに、
怖い女教師『雷のお新』といったとりまきがいて、かれらの「正
義」をふるっている。この教師グループは、「学校管理という幕
府の政治に反抗するものはいないか」「学級担任という領主は、
幕政に忠実であるか」「学級担任領主に隠れて、悪事をはたらく
人民=生徒はいないか」と、全国津々浦々、学校のすみずみにま
で眼を光らせている。
 さしずめ生徒指導主任は、『黄門様』であろう。
 この『黄門様』は、「悪い生徒」を発見すると呼びだして説教
する。ところが、生徒が「なぜ、いけないのか」と口答えしよう
ものなら、「これ、これ、これが眼に入らぬか」と葵の紋章なら
ぬ校則をふりかざし、「ここにダメと書いてあるだろう。恐れ入
ったか」とやる。そこで生徒が、恐れ入ってくれればいいが、
「そんなものは教師が勝手にきめたことだ」などどいって恐れ入
らないと、とりまきの『助さん』『格さん』がずいと進みいで「
この野郎」とめった打ちに体罰を加えるのである。
 生徒の数が多かったり、それでもふてくされたりすると、『風
車の弥七』『霞のお新』も登場して、すばやいケリを入れたりし
て『悪人ばら』をやっつける。そのさまを「ヒヒヒツヒッ、やら
れている。やられている」ど手をうって喜んでいるのが、『うっ
かり八兵衛』 教師である。
 こうして、やっつけられた生徒が、息もたえだえに恐れ入ると、
領主先生も大感激、最後に一同打ちそろって「アッハハハハハ」
と高笑いして幕となる。

 この『助さん』『格さん』に抜擢される教師は、学校規範をお
のれの魂とする、はりきりボーイの若い教師である。わたしも若
いころ、周囲にのせられて『助さん格さん』役をやったことがあ
るから、よくわかる。なんのことはない、なぐり役なのであるが、
血気にはやり、規則の徹底こそ教育だとする、学校過剰適応の若
い教師がのっかりやすい役どころである。
 こういうなぐり役は学年にもいて、学級祖任や教科担任が、い
うことをきかない生徒を職員室へひっぱってきて、なぐり役に「
先生、ぶんなぐってよ」ってそういわれると、得意になってなぐ
ったりする。そんな教師がひとりいれば、まわりの教肺は手を汚
さずにすむから、みんなから重宝がられ、ちやほやされる。
 すると、本人もだんだんとその気になって、学年説教集会とも
なれば、ここぞと壇上から生徒たちを恫喝し、ふるえあがらせ、
いつしか「指導力のある教師」になった錯覚に陥る。
 
 ところが、このあとが、テレビの水戸黄門とちがうところだが、
『助さん』『格さん』教師が、体罰などのゆきすぎで失敗ると、
『弥七』『お新』『八兵衛』はむろんのこと、『水戸黄門』はじ
め、管理職の『上様』までも、にわかに冷淡になるのである。
 その失敗が、マスコミなどに報道されると、最初のうちは、「
熱心な教師だ」「熱心さのゆきすぎ」といってかばってくれる、
分が悪くなると「あの教師は、日頃から短気だった」などと、手
のひらをかえしたように、その教師の個人的姿質のせいにしだす
のである。結局、バカをみるのは直接手をくだした若い教師で、
そそのかした教師たちが断罪されることはない。

   明るい学校をつくる「 教 師 の 知 恵 」より 家本芳郎著 高文研







inserted by FC2 system