被 災 地 か ら 報 告 - 津 波 体 験 -

                        宮城・気仙沼女千高校 杉本文郎

 この度の東日本大震災におきましては、私に限らず各地の皆様も被災されている状況の
中、全国集会参加者の皆様をはじめ会員の皆様方よりこ心配のご連絡およびお見舞を頂戴
いたしました。この場をお借りいたしまして、心より御礼申し上けます。
 震災が発生したとき、私は気仙沼女子高校の校舎2階にある教室て成績不振者を対象と
する簿記の補習をしていました。その窓からに気仙沼湾か一望てきます。突然、私の携帯
電話から緊急地震速報の警報音が鳴り、生徒に「大きな地震か来るかもしれないぞ」と言
った数秒後にあの強い揺れが長い時間続きました。日頃の訓練で、机の下に入る様に指示
をしても誰も反応しませんが、この時は、生徒自ら声を掛け合って机の下に隠れました。
よほと怖かったのてしょう。私は教室のドアを開け避難経路を確保し、ふと窓の外を見る
と海面が波打っていました。まるで洗面器に水を張り、その縁をたたいた時の様なこれま
で見たことのない波形です。やがて揺れがおさまりましたが、1978年の宮城県沖地
を体験している私でも、あの日の揺れの大きさには身がすくみました。幸い、校舎は高台
にあり、8年前に行った耐震補強工事のおかけで校舎内にいた生徒および教職員は直接の
危険を伴うような被害はあまり発生しませんでした。
 その後、間もなく大津波警報が発令されたという防災無線が響き渡り、地域住民の方々
が高台にある本校に避難を始めました。私たちが慌ただしくテントの設営などをしている
と、「水が引いていくぞ」との声がしました。見てみると、観光船乗り場の海底が見える
のではないかというくらいの引き潮でした。そして、その後の津波で学校周辺の家屋がま
るで模型のように流され、電信柱がなぎ倒される様子を目の当たりにすることになります。
しばらくすると引火した重油が気仙沼湾内に流れ込んだため、生徒や地域住民の方々とと
もに雪が降る中、津波を避けて山を越え、市役所方面に避難してようやく安全を確保する
ことができました。翌日以降の状況確認では、学校の下にある駐車場に停めてあったマイ
クロバスが水没したほか、校舎は水道タンクのパイプに亀裂が入り、また体育館の鉄骨の
一部落下するなどしましたが、修繕により校舎は使用可能となりました。
 しかし、被災直前3月の卒業生で就職が内定していた者のうち、特に地元就職者はほと
んどが内定を取り消されました。また、生徒・保護者および教職員は事なきを得たものの、
教職員の半数は自宅や実家が波にのまれ、少なくない生徒の自宅も被災しました。6年ほ
ど前に新築した私の自宅も2階まで重油・ヘドロまみれの波をかぶり、南側の窓が枠ごと
破壊され、北側の壁がめくれ上がり天井も抜け落ちて家の中の物はほとんどが流出し、と
ても住める状態ではありません。かろうじて家の形は残ったものの、引火した重油による
火災で自宅の2軒隣まで全焼し、商教協関係の資料や備品も全て水没、流出してしまいま
た。
 当時は道路が瓦礫で埋まり、ガソリンが不足していたことから、私は1か月ほど避難所
で生活を送りました。私かいた避難所は地域の方々のご厚意で、震災直後から1日3食、
おにぎりが1個ずつ配給されていましたが他の避難所では飲み水の確保さえ困難だったと
聞いています。その後、妻の実家(職場まで車で20分程度)に2次避難し、9月によう
やく仮設住宅へ入居することができました。
 近年、本校では生徒数の減少に歯止めがかからず、苦しい経営を余儀なくされていまし
たが、経営母体である畠山学園理事会は7年末に突然、震災を大きな理由の一つとして、
「生徒募集の停止しを決定した」「早期退職制度を考えている」と教職員に通告しました。
その翌日から、保護者に対して何の連絡もないまま中学校への報告を行い、数名しか参加
しないPTA役員会を開き、その日のうちに保護者宛に紙切れ一枚を送りつける形で生徒
募集停止の報告をしました。組合の指摘もあり、9月10日になってようやく保護者説明
会を開催しましたが、保護者からは当然不満の声が噴出しました。教職員に対しても7月
末の通告以来何の説明もありません。生徒も教職員も不安な中で、目の前の現実(学習、
部活動、進路等)に迫われる毎日を送っています。
 今回の畠山学園理事会の決定は、生徒・保護者・卒業生・教職員に対する無責任な決定で
あると同時に、地域の復興に水を差す許されない行為です。震災からの復興とともに本校
の教育を守るために皆様のお力をお借りすることがあるかもしれません。その節はぜひ、
ご協力をお願いいたします。


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